渡辺豊和 追悼-1

渡辺豊和 追悼-1

<旅の思い出>

「新田君こんなところで育ったんなら建築は出来ないよね」、この言葉は今でもトラウマである。

「のどかな?中国地方で育った「弥生人」には建築は出来ない、東北育ちの「縄文人」でなければ建築は出来ない」、とでも言われたようで、その時はただ曖昧な頷きを返すしかなかった。

それはインドネシアのスラェシ島で、トラジャ地方を目指していたタクシーの車中であった。乗客は3人、渡辺豊和、歌一洋、新田正樹。気を紛らすように新田が車窓を眺めながら言った「僕の田舎もこんな感じですわ」、風景は連なる山々がのどかな美しさを見せていた。自分の田舎は単に山あいの過疎村落だという意味で言ったのだが。それに対する渡辺さんの一言が冒頭のものである。

これはよくある現象で、誰かの言った何気ない一言が、ある人の心に琴線として残っているのだ。

長年たって、言った本人はとっくに忘れているのにその人の記憶はずっと消えない。自身も逆に、同様のことを指摘された経験があったので合点がいく。因みに後年そのことを渡辺さんに言ってみたのだが、当然のように全く記憶にないと笑われた。未だに真意は謎のまま脳裏に媚びりついている。

出会いは渡辺さんの事務所であった。少し前に知り合っていた吉田(保夫)さんが「渡辺さんに紹介したる」ということで、恐る恐る?芝川ビルの階段をのろのろと上った。

何しろ建築家に会うのは3人目(西澤文隆先生、吉田保夫さんに次いで)で、それがあの怖そうな?渡辺さんということで少し緊張したことを覚えている。

その時は知らなかったが、建築家の挨拶は「どんなんを作っているの?」というものらしく(何しろ人格よりも作品至上主義の世界?)、確か出来立ての「ホワイトハウス」の誌面を持参していた。

何を話したかは覚えていないが、「こんなもんではあかん、出ていけ」(以前誰かの建築を見に行って、こんなもんは見ておれんと激怒した話を聞かされていた)、とは言われなかったのは確かである。

それから少し経った頃、渡辺さんがアトランティス大陸の検証に行く、ついては水戸黄門ならぬ渡辺黄門様の付き添いとして歌さんと共に同行することになった。どうもアトランティス大陸がインドネシア北部にあるメナド湾だったということらしい、「ホンマでっか」とつい声が出そうになるほど半信半疑だったが、なにわともあれ渡辺さんと一緒に初旅をする。冒頭の話はその途中でのシーンであった。

その時は、トラジャ地方に伝統的に続いている儀式(確か村長のような偉い人の葬式だったか?)を見ることと、建築的には伝統的な建物である「トンコナン」を見ることが目的だった。

豚の黒々した丸焼きを逆さにして孟宗竹で通し神輿のように担いで走り回る様は、日本の形骸化した祭りとは全く違いイキイキした躍動感に満ちていた。これが1週間ほども続くという、すごい。

「トンコナン」は勿論初めて見たのだが感動した。4本の掘っ建て柱からなる2階建てで、1階はいわばピロティーであり、豚等が飼われていて上から食べ物の残りものを落とす。2階が住居になっていて梯子で上がる、屋根も両側にそり立っていて何とも美しい。笑えるエピソードだが、ご馳走で出てきた料理」は忘れられない。野ネズミを丸焼きしたものなんだが丸々とでかく日本のそれの比ではない。新田、歌はそのビジュアルと臭いに最初からお手上げだったが、やはり渡辺さんは違った。「そんなヤワだから建築が出来ないんだ」とばかりに一口ガブリ、しかしそこまでだった。さすがの縄文人も噛みもせず根を上げた、渡辺さんが食べれないなんて、後にも先にも初めての光景だった。

帰国後、渡辺さんの対馬での大作(代表作)が新建築誌発表された時、くしくも同じ号に新田の建築も発表された。それは「トンコナン」に触発されて発想した木造の小さな休憩舎だったのだが、同行した旅の一つの結実を見たようで一層感慨深い懐かしい思い出となった。 

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