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ユートピア

トマスーモアのユートピアはどこかの(マダガスカル島という説もあるが・・・)無人島に漂流、漂着した一人の男が何十年もそこで一人ですごす、それからある時期が来て国(都会)に帰る話である(またそこから色々ドラマが繰り広げられるというものだがその後半はあまり覚えていない)。これは異郷へのノスタルジーに溢れた物語が興味を引くのだが、考えて見れば日本での浦島太郎伝説もそれにも通じるものなのだろう。ここまで極端ではないにしろ、これは何もそう特殊なことではなく、誰しもがどこかで経験する「旅行」というものがそれにあたる。その期間が長ければ長いほど浦島現象がきついだけで、旅行は何かの刺激をもたらす。環境の変化が、人間の思考回路の糸よりを揉み解すということである。付け加えれば、若者は良く旅行するが、これは未知への期待度が高いからで、年配者は旅行といってもほとんどが既成の観光旅行になってしまう。若者には旅行というよりもむしろ「旅」という言葉の方がイメージが合いそうである。人間にとってその経験、体験が血肉になるのだが、これだけグローバル化が進むとその感動も、もはや世界中のことをどこかで見聞きしているだけに多少和らぐのは否めないが。

しかし肝心なことはユートピアは何処にもないということ。勿論地理的なそれは、地上の楽園とか言われる地域があるぐらいだから一応はあるのだろう。しかしここで言うユートピアは概念上の観念の部分を含んだ、人間の社会環境としてのそれをさすとしたら、これだけ世界経済の一元化がますます進んだ世界ではそれはありえなくなっている。もう少し説明すれば、まずかの地での生活時代は、それはそれで色々一生懸命なのだから必死である、しかしそれが思い出に変わったとたん、懐かしさがこみ上げてくる、この思い出というものが概念的ユートピアと呼べるのだろう。ただ前提は、自分からの意思ではないのに戦争の犠牲になるというような体験は別であるということ。あくまでも浦島太郎伝説的経験がもたらす人間考察を土俵にしたものである。
極限すればユートピアは人間の「経験という行為への」イマジネーションと未来思考の中にしか存在せず、現実には存在しないということ。生生しく言うと、今の全世界経済危機になぞらえているのだが、これは人間というものが、時間の意識と、単なる生存欲を越えた欲望を併せ持つ限りありえないのである。

しかし、だからこそ人間は生きて行けるのかもしれないが・・・。