M氏に哀悼

ますます大きな問題に発展しているこの度の構造計算書偽造問題。個人的には前回発表したコメントで終わろうと思っていたのですが・・・・。当時者の一人である元受設計事務所のM氏の死という最悪の事態を迎えてしまいました。これには私も含め同業の設計事務所の人々に新たな衝撃が加えられたのだろうと思い再度入稿しました。悲しい事実です。まず苦しみの中で自ら命を絶った(と言われている)M氏に心より哀悼の意を捧げます。勿論それによってこの問題が解決した訳でもなく、彼の罪が消えることもありません。ましてマンションを購入された住人の人達の怒りが納まる訳でもありません。また、勿論私がこの問題の詳細を知る由もなく同業とはいえM氏を知っている訳でもありません。したがってこの一コメントが何の足しにもならないことは承知です。にもかかわらず再入稿したもう一つのきっかけは、NHK教育で「故吉村順三氏の作品について」をやっていて、その中で、普通はありえないことですが、今回の事件について言及していたからです。こうした番組であってもあえてつい触れざるを得ない状況だということでしたのでしょう。これはどちらも同じく「建築」なのです。この同時性、「建築」が芸術と技術の両義性と経済とのアポリア(矛盾)を抱えた社会的産物であるということを、多くの人に改めて認識してほしいと思ったからです。

誤解を恐れず言わせてもらえば、今回の事件は、ますます建築が商品にされようとしている事への警鐘なのです。マンション(集合住宅)であっても大切な財産です。一戸の住宅を作るのと同じように考えられないでしょうか。私達からすると、ここ(マンション事業)では施主が二人いるのです。つまり、事業主と住人です。しかしこの場合は設計者は本当の施主、つまり住人には一切の接触もないのです。目先の施主(事業主)の意向に沿うように設計するだけです。そこには商品としての要求はあっても真に住み手に思いが行くことはありません。これが現マンション業界(ユーザーも含めて)の常識です。アトリエ派の建築家がそうした事業に関わる場合はまだ別として、多くの場合設計業界の人は、その事業の歯車の一員となることを生業とすることで生きています。コストパフォーマンスの問題はこの場合絶対なのです。施主の要求として暗にでも明にでも指示されたら逆らえません。仕事を外されることへの恐怖心が、技術者としての良心を凌駕し、「安全率に甘えたらどうか」という悪魔のささやきをつい受け入れてしまった。まして誰かがストップしてくれたらまだ助かったのだろうが、不運にもチェックされなかった。ここから引き返せない泥沼に踏み込んだのでしょう。今回の場合は極端ですが、この危険性と背中合わせに現在の技術者は生きています。設計業界は、ここで各自、再度技術者としての自覚と誇りを肝に命じるべきです。

しかし先にも触れたように片や「芸術としての建築、住宅」でもありうる潜在性も紛れもなく有しているのです。それは一部の富裕な人達の特権物のように見えますが、決してそうではなく、人々の建築に対する心の持ち様と方法でそれが可能になるのです。どうか建築を商品から心の森にしてください。M氏は悲しい事態に命をかけてしまったが、本来建築家は、クライアントのために、或いは社会のために、建築に商品を超えた空間を吹き込むことに命を懸けていますから・・・。この際、都市の建築システム、経済システム、強いては日本人のアイデンティティーまで含めた理念にまで思いを深めてもらえたらと思うのは欲張りでしょうか・・・。