バナキュラー・ニヒリズム・モダニズム

バナキュラーとニヒリズム、表現の世界でこの二つを同じマナ板に乗せるのはタブーとされる。しかし人間の心には根底的に、こうした一見相反する二つのものが同居している(形而上的見地)。たとえば静かな安心を欲する心と、変化を欲する心といえば解りやすいかも知れない。こうした言われ方をするところでは、ジキルとハイド、天使と悪魔、20世紀絵画でいえば写実主義と超現実主義、アメリカ文学でいえばヘミングウエイとヘンリーミラーとでもなろうか。いずれにしても、こうした両極的現象は表現の世界に限らず現実社会でもすでに同居している。繰り返すが誰しもどちらかしか持ち合わせていないのではなく、どちらも潜在的に持っている。ただ個々の表現の時々ではそれらが平等に顔を出すのではなく必ずどちらかが勝ってしまう、いや勝たなくてはひとつの意思を持った表現にならないからである。20世紀モダニズムは、ある意味その間隙を縫って(両方を具有する面をある時々、瞬間見せるがゆえに)イニシアティブを獲得したのである。勿論それらはどちらの方が優れていて、どちらの方が劣っているということではない。それは表現の世界の役割がなんであるのかを問うてみればよい。様式論には決着ガついたかに思われている21世紀世界においても、実は多様なシチュエイションとニーズに溢れているのだから。

ではそれらはどのような時にどのような方法論によって表出されるのか、また必要とされるのか。それは当然その表現者個人の内面の在り方によるところが大きい。しかしそれがまた個人を取り巻く環境、関係性によって左右されている。そうするとあとはそれがどのように自身の琴線に触れるかだが、これはまた多種多様な神経回路に満ちていて複雑である。最後に行き着くところは論議を超えた、きわめてシンプルな感受性の問題になる。しかしここではあえて二つのモチベーションのあり方を上げておきたい。一つは内因的なもの、精神医学でいうトラウマのようなものである。多くの表現者は基本的にこれを引きずっていると言っても過言ではない。言い換えれば最初から備わっている一つの負荷でもある。そしてもう一つが外因により誘発されるものである。たとえば20世紀は戦争の世紀であり、多くの表現者がその衝撃から筆やペンを取っている。ピカソやダリはスペイン内乱を目の当たりにして宿命的にキャンバスに向かったのだし、ミースのモダニズムはユダヤ人であるという歴史的内因とナチスという最悪の外因により作れ出されたニヒリズムの結晶でもある。たとえば日本でも、これは逆に外因が筆を折らせたという例だが、阪神大震災によって日本の「デコン」は終わったといわれる、それだけあの時の衝撃は生半可な表現を押しつぶしたのである。

いずれにしても表現者には、この内因、外因のどちらか、もしくは両方がからまって、自身のポジション、社会義務の枠を超えてでも表現しなくてはいられない気分の高揚、または表現しなくてはならないという自己哲学の突き動かしが必要とされる。その意味からすると、これはひとつの「アウトサイダー」のなせる業なのであろう。