ロックンローラーと「ネ萌え建築」

モダニズム建築の一つの目標がレス空間、極限すれば解脱空間にあるとしたら、それは永遠の目標選択であり、またそれに向かう建築家が一人の求道者であるならそれはそれで間違いではない。また建築が本来的に、社会資本的産物であるとしたなら、20世紀モダニズム建築はその指針たりうるリーダーシップを担おうとしたのは明白である。しかしまたそれはもろ刃の刃を研いだことにもなる。合理性の追求は新芸術と共に均質化主義を台頭させた。

人間は生きるうえになんらかの理由を抱えている。理由の上の生存のために、家族のために、愛する人のために、国のために、仕事のために、芸術のために、人一倍稼ぐために、理不尽なシステムのために、もしかしたら憎むべき人、対象のために、時代を克服するために・・・。とすればその人間及び人間社会が作り出す建築も思いを共有する羅針盤であろう。歴史的な建築界のエポックがある。日本が第二次大戦の敗戦ショックを克服するためには、(軍国主義的保守主義を払拭するためには)、戦後まもなくの国内コンペ(広島平和資料館)で、先ごろ亡くなった丹下健三氏が、いち早く開示してみせたモダニズム建築の爽快感が、国家的にも、思想的にも、国民的にもそのニュートラルさが、皆一様に共振できた新日本ルネサンスの幕開けとなったのである。

この、建築にとって幸せな時代をベースにした戦後建築は、先の丹下スクールを筆頭とした大モダニズム旋風として近代日本を再建、再生すべく順風漫歩に歩みを続けてきた。その中で、唯一の抵抗というか逆風が、先ごろ収まった?「ポストモダン」運動である。
これは合理化とともに抱えこんだ均質文明主義へのアレルギー現象として、言い換えれば建築界のロックンローラーとして、一大革命的現象を見せた。それはまさに、原点主義、初源主義、一般には「コスモロジー派」といわれたいわば「もだえる建築」達であった。くしくも日本でのそれは、いわゆる団塊の世代を最後尾に従えていて大変な潜在的推進力を備えていた。その証は、かの丹下さんですら、晩年その論理影響下で代表的な仕事(新東京都庁)を成し遂げている事を見てもわかるだろう。私にとっても、それがちょうど建築家としての駆け出し時期に重なっていたから、大変新鮮な刺激を受けたものである。(それが高じて、まったく資質が違うにも拘らず、ポストモダンの旗手であった渡辺豊和氏に私淑することになった。)

しかし、それが20世紀の終焉と共に、バブルの副産物であったごとくの在らぬ疑いというか位置付けをなされ、少なくとも現代日本では葬り去られてしまった感がある。しかし「建築産業」は時代と共に流行するが、建築そのものは、それが創造性に富んだ空間であれば必ずや、流れ行く時代を超えて評価が維持されるであろう。いや逆に、日本が世界の近代建築シーンの中で、「唯一」誇れるの近代オリジナリティーだとして再評価されるやも知れない。

少なくとも、ますます合理主義社会に突入していく現代社会にあっては、ネオポストモダンのビジョンのもとに、単なる造形主義を超えた「ネオもだえる建築」、略して「ネ萌え建築」を模索し続けなければならない。