体現する建築

07/3/18 新田正樹 講演会 骨子

人間の成長、あるいは社会の成長の過程で誰でもさまざまな希望、期待を抱く、しかしそれはたいていの場合期待通りには行かないことが多い。でもそこからなんとかして違う方法を模索する。人間は本来的には楽天的に出来てるのだろうか。人生的には、特に若い時には、その繰り返しが再三に渡ろうとも再生しうるという特権がある。ものは考えようで、その人生的、人間的修練、苦難の繰り返し、いわば「人生の旅」は、物作りにとって「味」として後から必ず効いてくるから面白い。

私の場合も意気揚々と建築を始めた訳ではない。私が「建築」を始めたのは、30過ぎから。それまでは現場監督、町の建築事務所、及びドラフトマンをやっていた。20台前半はずーっとドラフトマンをやっていたわけで、なかなか「建築」までは行き届きそうになかった。期待を裏切られたというより初めから希望の灯りは灯っていなかった。しかしそこでモチベーションをどう維持するかが大きな岐路になる。もがきの中から、おかげで幸運にも小さな実施コンペに当選し、その後、繰り返しやってくる波動を潜り抜け建築家としてかろうじて、というか、必死にまだ踏みとどまっている。しかし、笑えない結果として、今この瞬間も生存の脅迫に怯るという代償を払っている。何故だろう、いつもあえて困難な道を選んでいるようだ。

何故生存に脅かされながらもそうするのか、また出来るのか・・・。大事な命題です。それは、自然と精神的身軽さを体に覚えさせたのだろうと思う。幾多の世俗的難題は抱えながらもである。まず物欲を捨てること、何もかも身につけようと思うとうまくいかない、言葉を変えると犠牲的精神が必要ということ。それによって精神の身軽さを備える。そこに至るには、先達とのいい出会い、助言も重要であることは言うまでも無い。

人生と同じように建築そのものも一種「裏切られること」を前提として成長する。これは当然の話だが時代との関わり。その時代にとっていいと思ったものが次の時代には必要とされなくなり、建て直し、改修されることの繰り返し。ただここで問題にしたい希望と裏切りとは、その意味での自然成長的な歴史との関係ではなく、建築家という表現者としての問題。

私が建築家としてスタートした頃の希望はポストモダンだった。「建築」を始めた頃(1980年代前半)がちょうどポストモダン全盛の頃だったから、その運動は輝いていた。それは幸運にも今から思えばいい時期だった。いい時期というのは、物事を考える時に必須な弁証法的土壌が成り立っていたからだ。対立軸、対立概念がはっきりとしていた。20世紀は戦争の世紀でもあったが、新しい概念が芽生え成長した輝かしい100年でもあった。建築界最大の革命はモダニズムのグローバル化でありこれは語るに及ばない。その20世紀後半に必然的に出現したのがポストモダンだった。この定義はいろんな方向から考えられるが、私には、定番とされるヒストリシズムという括りを越えて、建築が、機能美を超えた「表現」の対象になる、思想の体現として成り立つんだという具現化をそこに見れたことが決定的に重要だった。
しかし、世紀末を迎えるにつれて期待のポストモダンは、私の期待も見事?に裏切られ、時流はネオモダンにシフトして行った。

とはいえ、現在そこにユートピアを見出そうとはしていない。コンピューターの発達のおかげで、軽快で透明で造形的でもある建築までもが可能になったとしても、それも憧れでもありえない。又ポストモダンの旗手達の、当時輝いていた建築も今や21世紀の指標にはなりえないだろう。とすれば、幸か不幸か単独者となった今こそ、新たな希望を模索しなければならない。キーワードはポストポストモダン、あるいはネオポストモダンとでも言うのだろうか。しかし、21世紀はもはや一定の定義を抱えて皆がそれを順守という時代ではない。では何を「指針」とするのか?。それはよりいっそうの「建築の体現」を意識し、実践していくことへのあくなき挑戦からしか生まれない。
では、具体的な行為、意識の指標とはどのようなことを指すのか・・・。
的確なサンプルになるかどうかはともかく、例としては「911」が考えられる。

2001年9.11のニューヨークWTC事件はまだまだ記憶に新しい。と言うよりもそこから始まったブッシュ政権の本格的な中東イスラム世界(象徴としてはテロ組織アルカイーダ)への介入が今なお継続中である。21世紀の幕開けがまさかあのような惨劇から始まろうとは、誰もが想像だにしなかったろう。建築界にとっても1995年の阪神淡路大震災の衝撃に匹敵する「青天の霹靂」の事件であった。

阪神淡路大震災の時、関西の若手建築家達は通称「関ボラ」を結成し、非破壊調査、復興町作り支援活動等に紛争したが、その後展開された復興状況は燦燦たる結果で、個人的に「建築家の居場所」という文章を残したに留まった。結果的に、その時、バブルの崩壊と重なるように日本のデコンは終焉を迎えた・・・。
このときは自然の驚異が建築の歴史様式に変化を与えた。翻ってニューヨーク。スティ−ブマックイーン主演のSF大作「タワーリングインフェルノ」における、超高層建築の火災シーンが鮮鋭に甦るが、まさか、火災のみならず、建物そのものが消滅してしまう事態が起ころうとは、正に事実は小説よりも奇なり、仮想されたシナリオをはるかにしのぐ現実界のシナリオは空恐ろしい世界だった。

なぜWTCが狙われたか、勿論どうしてもWTCでなければ成らなかったとはいえないだろうが・・・。要はアメリカの富の象徴である超高層建築郡、いわゆる摩天楼、ここに照準が当てられた。富めるアメリカの象徴をそれら建築郡が体現しているということ。ただ今でも思うのは、あの建築が象徴としての機能美を越えて、人間的な様相を呈していたら歴史は違っていたんだろうと・・・。

ここでは建築家の意思を越えて建築そのものが意思、歴史的意味を持って一人歩きをしてしまうと言うことを物語っている。ちょうど親は自分の分身のように子供を可愛がろうとするのに、子供達は勝手に独自の意思を持って親離れをしていく様子にも似ている。建築は完成と同時に建築家の手を離れ、社会、環境の一部になり、建築家の思いとは別の見方、受けとられ方を余儀なくされる、よくも悪くも建築は、その時代、社会が作り上げた「時代の体現者」になる宿命を負うことになる。あの事件によって、現代建築家達自身が初めてそれを目の当たりにした。

それは、その後展開されたグラウンドゼロプロジェクトのマスタープランコンペが、その意味で世界の建築家達に問いかけた課題でもあった。建築が、建築家が歴史をどう解釈しどういう思いで答えを提示するのか、まさに「体現する建築,体現する都市」への思考の深化が問われた。
その結果、顛末はコンペ獲得者のダニエル・リベスキンドが詳しく語っているので参照乞う。ただ、いかにリベスキンドといえども、巨人SOMを相手にここでは苦戦を強いられているらしい、頑張って欲しい。

一にも二にも三にも意識の問題である。そんなに大きな建築でなくとも、建築とは本来的に「体現する」ものだということをそこから再認識したい。「体現する建築」とは、単に時代の流行をデザインすることに留まらず、一つ一つ違う地域、歴史、場所の重みを踏まえるとともに、自分自身の願い、思いの篭った、いわば「もだえる空間集積」である。