オバマ おめでとう

2008/11/4(日本時間5日)は歴史的な日になった。アメリカの第44代次期大統領にバラク・オバマ氏が決まったのである。おめでとう、心からお祝いを言いたい。これは1863年のリンカーンの「奴隷解放宣言」に続く革命的な出来事である。また、近いところでは、1960年の今頃だから48年前になるが、ジョンFケネディー以来の魅惑的なリーダーの出現である。2001の9/11で始まったアメリカの21世紀は暗い幕開けであった。それを振り払うべく、現ブッシュ大統領が、がむしゃらに中東に怒りを向けた7年間であった。その是非が問われて久しい、またそれに輪を掛けるように昨今の世界的経済危機への陥り。その元凶が当のアメリカ自身だとなれば、これはもう言い逃れは出来ない。ブッシュの政治手腕が問われるのである。そうした歴史的タイミングからして、まさに彗星のごとく現れたニューリーダーであり、合衆国ならずとも全世界から注目と期待を集める「新時代の希望」である。今回のこの経済危機が、くしくもアメリカ一国支配の世界縮図の崩壊契機になり、対話と協調を主軸とする新時代への枠組み「チェンジ」が求められる時代になったのである。なんとエキサイティングなことだろう。大いにオバマ氏に頑張ってもらいたい。唯一祈るような願いがある。前述のケネディー氏の45年前の悲劇はどうか繰り返さないで欲しい、「良識ある国家アメリカ(国民)」に望むばかりである。

ユートピア 続

禅問答のようだが、ではなぜユートピアを求めるのかと問われたら、何処にもないからだと答える。これは幾多の権力者たちが、不老不死の食物を求めて家臣たちをそれこそ地の果てまで探しに行かせた話に通じるものがある。かつては、地の果てである「ジパング」もその格好の対象として、かの秦の始皇帝の命を受けた除福も熊野灘に上陸したという。何処にもない不老不死の薬草探しに躍起なるのは、無限の可能性に満ちていた近世までの世界観ならまだしも、世界が有限で資源の保有能力までわかってしまった現代ではさすがに信じる人はいないが、かろうじて金やダイヤモンドのような黄金探しの夢が続いているぐらいである。しかしここが人間である、そうとわかっていてもどこかでそれを探し求めているのだ、夢・・。

ここで肝心な建築史上でのユートピアを見てみよう。建築の世界では、前述からのユートピア観とは少し違うが、もう一つのユートピア的至福である天へのあこがれがある。ヨーロッパのゴシック建築はまさに宗教的天への憧れであり、それを始めとして、宗教色は脱色したものの、高さへの憧れはあちらこちらで見られる。サンジミアーノしかり、ニューヨークしかり、現在のドバイしかりである。いわゆる「世界一」という至福へのあくなき探求(欲望)は連綿と続いている。もはや人類は宇宙にまでに飛んでしまっているというのに地上何メートルにこだわっているのである・・・。

しかし、断言するが、何処まで高く昇ろうともユートピアはないのである。そうした合理的な数値で測られるところにユートピアを求めなくとも、目くるめくような世界探しに明け暮れなくても、実は、人間の魂までも揺さぶるような至福の空間が「優れた建築」にはあるのである。何しろ空間は少なくとも3次元的には無限の表現の可能性を秘めているのだから・・・。
とすればユートピアはすぐ身近にあるのである。建築家の使命もそれを作り出すことにあるのである。少し神経を研ぎ澄ましてそうした見方で建築を観てもらいたい。もしかしてそれが見つけられたら、まさにそこがユートピアであろう・・・。

ユートピア

トマスーモアのユートピアはどこかの(マダガスカル島という説もあるが・・・)無人島に漂流、漂着した一人の男が何十年もそこで一人ですごす、それからある時期が来て国(都会)に帰る話である(またそこから色々ドラマが繰り広げられるというものだがその後半はあまり覚えていない)。これは異郷へのノスタルジーに溢れた物語が興味を引くのだが、考えて見れば日本での浦島太郎伝説もそれにも通じるものなのだろう。ここまで極端ではないにしろ、これは何もそう特殊なことではなく、誰しもがどこかで経験する「旅行」というものがそれにあたる。その期間が長ければ長いほど浦島現象がきついだけで、旅行は何かの刺激をもたらす。環境の変化が、人間の思考回路の糸よりを揉み解すということである。付け加えれば、若者は良く旅行するが、これは未知への期待度が高いからで、年配者は旅行といってもほとんどが既成の観光旅行になってしまう。若者には旅行というよりもむしろ「旅」という言葉の方がイメージが合いそうである。人間にとってその経験、体験が血肉になるのだが、これだけグローバル化が進むとその感動も、もはや世界中のことをどこかで見聞きしているだけに多少和らぐのは否めないが。

しかし肝心なことはユートピアは何処にもないということ。勿論地理的なそれは、地上の楽園とか言われる地域があるぐらいだから一応はあるのだろう。しかしここで言うユートピアは概念上の観念の部分を含んだ、人間の社会環境としてのそれをさすとしたら、これだけ世界経済の一元化がますます進んだ世界ではそれはありえなくなっている。もう少し説明すれば、まずかの地での生活時代は、それはそれで色々一生懸命なのだから必死である、しかしそれが思い出に変わったとたん、懐かしさがこみ上げてくる、この思い出というものが概念的ユートピアと呼べるのだろう。ただ前提は、自分からの意思ではないのに戦争の犠牲になるというような体験は別であるということ。あくまでも浦島太郎伝説的経験がもたらす人間考察を土俵にしたものである。
極限すればユートピアは人間の「経験という行為への」イマジネーションと未来思考の中にしか存在せず、現実には存在しないということ。生生しく言うと、今の全世界経済危機になぞらえているのだが、これは人間というものが、時間の意識と、単なる生存欲を越えた欲望を併せ持つ限りありえないのである。

しかし、だからこそ人間は生きて行けるのかもしれないが・・・。

オープンハウス

かねてより工事を進めて参りました「伏見のHOKORA」がようやく完成を迎えようとしています。この建築は、超ローコストがゆえに使用材料のほとんどが、いわゆる建売仕様というものです。しかしながら、そうした過酷な与条件の中でも、いかに「建築」を作れるかが勝負どころでした。その結果はともかく、もし興味のある方がいらっしゃったらご連絡下さい。

日時  2008年9月27日
時間  AM10時〜PM5時
場所  京都市伏見区
担当  水野

マケドニア正教会

マケドニア正教会国際コンペに参加しました。
応募案の締め切りが3/24必着ですから日数が微妙なのですが、
何とか19日にぎりぎりの発送をしました。朗報期待します。